頑固煮の現場探訪

「せっかくだから混ざってみる?」取材初日、私は中村社長(以下中村さん)にうながされ急遽朝礼に参加することに。従業員さんと同じ作業服に身を包み、共に1日のスタートを切る。
ひとしきり朝礼が終わり、先ほど理念を読み上げていた従業員さんを「ブラボー阿部ちゃん!」とおもむろに中村さんが褒めていた。それを聞いてあっここは体温が高いな。と私は思った。
今、私がいる所が肉の中村の本社であり調理場。ここは同社の前身である「中村精肉店」があった場所。かつて中村さんのご両親が看板を上げ、町のお肉屋さんとして地域の食を支えていた場所である。


さて作業台にドスンと置かれた大きな箱。そして取り出されるは山形豚のバラ肉22.8kg、大きい!このバラ肉がおよそ120人分もの角煮へと生まれ変わるという…その全工程をこれからお届けしたい。
◻︎1日目:仕込み

カメラの向こう、手際よく豚肉を切り分けるのは調理場のチーフを任せている舟山さん。前述の中村精肉店が運営していた焼肉店「赤富士」があった頃から腕を振るっている、いわば職人である。


バラ肉の次はネギを。包丁がまな板を叩く音が静かに響く。カットを終えた食材は寸胴へ。「そこに生姜と蜂蜜を加えて2時間火を入れます。」と舟山チーフ。ネギと生姜は豚肉の匂い消しに、蜂蜜は下味を整えるばかりでなく豚肉に自然な甘みを与えてくれるそう。


…肉の中村が産声を上げたのは2004年。と、時を同じくして店を畳むことになった中村精肉店。同社の創業は1968年と長い歴史を持つ。その翌年に生まれた中村さんは、両親が二人三脚で切盛りする当時の様子をこう振り返る。
「お店は父が精肉を、母が惣菜をそれぞれ担当していました。惣菜は全て一から手作りで。ポテサラだったらじゃがいもを蒸して皮を剥いてと…手間暇かけて作っていました。私もよく手伝っていましたが、今にして思うとそれが原点ですね。」今のように冷凍食品が豊富になかった時代である、中村精肉店の真心こもった惣菜は人気を博した。「忙しい主婦が少しでも家事が楽になるように。その一心でやっていたと母から聞いています。」
お店の評判と好景気も相まって経営は軌道に乗り、徐々に事業も拡大していく。「父が出たがりな性格というのもあってかプロセスセンターにステーキハウス、それに焼肉店と、勢いがありましたね。ただ私は家業を継ぐつもりはなく、普通に就職しちゃいましたけど。」大学を出た中村さんは仙台の一般企業に就職した。本人曰くごく普通のOL。そんな中村さんが山形に呼び戻されたのが1994年のこと。「焼肉店が大繁盛でとにかく忙しすぎて店が回らないから早く帰ってきて!と電話がかかってきまして。とはいえ今までお肉のことや飲食店のことは全く勉強してない私がですよ。それでもいいからと‥よっぽどですね。」焼肉赤富士は炭火焼きで、しかも食べ放題と当時の山形では珍しいスタイルだった。行列ができる焼肉店としてテレビにも取り上げられ、観光バスが乗り付けるほどの人気ぶりだったという。
…今私の目の前で寸胴を満たしているのが、その赤富士の頃よりさらに前、中村精肉店時代から続くタレ。何十年と継ぎ足され、肉の旨みが濃縮された唯一無二のタレである。



再びゆっくり火を入れる。沸騰させる過程で灰汁を取り味加減をみる。決め手は舟山チーフの舌。時にスープのまま、時に白米にかけてと様々な角度からベストを探っていく。途中お玉の底で優しく肉を撫でるような素ぶりをみせた舟山チーフがポツリとこう呟く「こうやってお肉を可愛がっているんですよ。」ふむと思った私、長くやられてきて我が子のように思えてくるものなんだろうか。舟山チーフに聞いてみると「…」今は極めてデリケートな作業なのである。

◻︎2日目:釜揚げ

翌朝、再び調理場へ赴く。早速寸胴の蓋をあけてもらうと昨日よりも濃く、引き締まったお肉が姿をみせた。「そう見えるのは、余分な油が溶け切って身の縮みが進んだからですね。」と中村さん。


聞けば今がいちばん柔らかい状態だという。そのため寸胴からお肉を取り出す作業 -釜揚げと呼ばれる- には慎重を期さねばならず、担当する渡辺さんは赤ちゃんを抱くように優しく、かつ手早い作業でバットへ移し替えていた。


「このままでは柔らか過ぎて、包丁を入れるとすぐに崩れてしまうので冷蔵庫に入れてもう一晩寝かせます。」
◻︎3日目:パッケージ

最終日。作業も大詰めとあってか、私が調理場に入ると舟山チーフの他2名の従業員さんがすでに準備を進めていた。2晩を経てちょうど良い肉質になっている今日、いよいよ頑固煮のパッケージングが行われる。
チーフが商品サイズに均等に切り分けたお肉を後の2人が袋詰めし、タレをかけてパッキング。そして商品用のパックへ封入していく。淀みなく作業を進める3人の連携を私はただただ見届けるのみ!





120人分もの頑固煮が次々とケースに積み上げられ、愛嬌のある豚の温かみのあるラベル規則正しく並んでいく。ひとしきり作業が落ち着くと「どうです?冷めてても全然美味しいですよ。」と舟山チーフが卸したての角煮を皿に盛り付けてくれる。思っていた以上に味がしょんでいて、肉厚なのに柔らかい。それに脂が甘い!これを聞いてにっこりした舟山チーフは「山形豚の旨み、最大限に活きてるでしょう?」
…頑固煮をはじめ、肉の中村が取り扱う素材はどれも -認定山形豚、米沢豚一番育ち、総称山形牛等- と名だたる銘柄豚やブランド牛が揃っている。その理由は高級志向のそれではなく、安心と健康に裏打ちされた商品作りを求める姿勢に由来する。
「地元に戻ってからの私はひたすら赤富士のホールを手伝っていました。思ってた以上にお店は大忙しで、慌ただしい毎日でしたが充実感もありました。」ところが2001年、BSE問題が全国を駆けめぐる。それは人気店に訪れた突然の黄昏。消費者の牛肉離れが一気に経営を直撃したのだ。それでもどうにか踏ん張ってきたが2004年、父忠さんはとうとう中村精肉店の閉業を決断する。ここで奮起したのが中村さんだった。
「30年以上頑張ってきたのにもったいない!と思ったんです。私は本格的な経営とか分からなかったけど、何らかの形で商売は続けたかった。」中村さんがその気持ちを伝えた時、父忠さんは一言でそれに応えた。
「応援するよ!やってみたら!」
好きです山形の気持ちで

「母は、家事や育児に忙しい主婦が少しでも楽になればという想いで惣菜を一生懸命作ってました。で、私が継ぐことになった2004年は…時代は変わりましたけど結局みんな忙しいんですよ。」共働き世代が日々もっと楽になるように。それを目指して惣菜専門店「肉の中村」は誕生した。商品はもちろん全て手作りだ。さらに中村さんは取り扱う素材も一から見直した。作り手と消費者が双方安心できる食材を求めて。「一度、食の安全が脅かされたわけですから、となると衛生管理が行き届いていることと高品質であることは必須条件でした。」



この3日間、私は商品作りへの徹底したこだわりを見せてもらった訳だが、それとは別に感じ入ったのが中村さんの従業員に対する心配りだった。作業場では舟山チーフをはじめ10数名の従業員さんが元気に働いていて、中村さんも自ら作業をしながら仕入れや納品の段取りに精を出している。
撮影初日のこと、私がまぜてもらった朝礼で中村さんがこんな事を言っていた「最近はメディアに取り上げてもらう機会が増えています。周りから『社長すごいずね〜』なんて言われますけど、そういった評価をいただけたこと、これは従業員全員の努力の賜物だと思うんです。」中村さんは常に周りへの感謝を忘れない人だ。「肉の中村立上げ当初は私を含め5人でスタートしました。その時は前の会社から残ってくれた人達に支えられ、経営から身を引いた父と母にも支えられ、20年経った今でも多くの方に支えてもらっています。」
もう一つ、私は中村さんに尋ねたいことがあった。肉の中村のロゴに添えられている「手間をかけるほどいい味になる。」という言葉。何についてもコスパだタイパだと、効率ばかりが求められているかのような昨今、だけど中村さんの方向性はそれとは対極に位置するように感じていた。「そういった打ち出し方は、今の風潮と差別化を図る意味合いもあったりするのだろうか。そんな私の質問に「それは違います!」ときっぱり答えてくれた中村さんの言葉で、この記事を締め括りたい。「昔からそうやってきただけです。お客様の喜ぶ笑顔のため。ただそれだけなんですよ。」
余談



…自慢でないが、私は食通でもグルメでもないただの大喰らいの太っちょである。なので何々の味に舌鼓…などとアレコレ語る術を持たない。けれども作り手の気持ちであったり背景に想いを馳せることはできる。まだ言語化されていない「何か」を求めてみたいといつも思っている。今回、私は頑固煮を食べた時に感じていた「美味しい。でもどこか懐かしい。」この感覚て何だろうと「?」がずっと頭の片隅にあって、そして記事を書き終えた今、ようやく気づくことができた。懐かしいという気持ちはきっと「誰か」を思い浮かべるからそう感じるのではないか。それは親でもいいし家族でもいい、人それぞれの大切な誰かなんだと思う。誰かが自分のために手間と暇をかけて料理をしてくれる。こんなに嬉しいことはないのだ。
もしこの記事を読んだ人が寂しさを感じた時は、一度中村さんの頑固煮を食べてみてください。きっと胸の奥がじんわり温かくなって、誰かの顔が浮かぶんじゃないでしょうか。

